●プロの作曲家を目指すという選択と、音楽の才能との関係
この「DTMプロフェッショナルコース」のサイトをご覧になっている方は、
これから、自分の好きな音楽に対して、「音楽家」「作曲家」というものを、趣味で続けていくべきか? はたまた思い切って職業にするのか?という、人生の選択を、大なり小なり考えるのではないでしょうか?
そして更に、この分野において、常につきまとってくる「音楽の才能」という言葉。実際、私自身も、中学生や高校生の頃から、このことを意識し、悩み、考え、いよいよ高校卒業の時期に来た時に、本格的に選択を迫られました。
音楽大学への進学、一般的な大学への進学、専門学校、就職。
出来るかどうかは別として、あらゆる選択肢がある中で、音楽家、出来れば、作曲家を職業にしたいという淡い希望を抱きつつ、この「才能」という言葉を、学校の先生や、友人に対して使いました。
担任の(一般教科の)先生に対しては、「音楽大学へ進学したいが、自分にそんな作曲の才能があるとは思えない」と弱音を吐いてみたり。
友人に対しては、「自分のような、音楽の才能も無いであろう一般人が、作曲家になれるなんて、そんな甘い世界じゃないと思っている」というような会話をしたことを記憶している。
私の両親は公務員で、「一般」を絵に描いたような家庭で育った私の周りに、音楽家を職業にしている人は、家族は勿論、親戚にもいませんでした。親族は皆、公務員か会社員という安定を絵に描いたような職業が多く、自営業者すらいなかった。家族からは、「音楽家なんて、お前が考えているほど、そんな甘い世界ではない」と、上から(ドヤ顔で笑)言われたこともありました。
結局のところ、一部の人には、ネガティブなことを言われ、一部の人は背中を押してくれました。おそらく、皆さんの場合も、結果は、似たようなものでしょう。考えが甘いという人もいれば、やりたいことならやってみるべきと言う人もいる。つまり、結局は自分で決めるしか無いという結論に収まる。でも冷静になってよく考えてみると、そもそも、才能があるか無いかなど、プロになるための勉強を始めてみてもいない時点で、音楽の神様以外、誰にも分からない。
更に言うならば、そもそも作曲家を職業にするのに、ずば抜けた音楽的才能が必ず必要かと考えると、そんなことはないと私は思う。
勿論、ずば抜けた才能があればそれは幸せで楽チンかもしれないが、あくまで仕事とすることがゴールならば、「人以上に努力する才能」さえあれば、十分可能だ。(流石に、生まれつきの才能もなく、かつ、努力することすら出来ない人には難しいかと思うが、それは、音楽以外の職業でも同様なのは言うまでもない。)
ちなみに、「音楽大学」と聞くと、皆さんは、もしかしたらそこには、音楽の才能が溢れている生徒がたくさん!と思うかもしれないが、それも大きな間違いである。
確かに、ほんのほんの一握り、周りに比べて、才能がずば抜けた人がいる場合もあるが、ほとんどの大多数は、まさにどんぐりの背比べだ。そもそも、音楽大学というのは、才能がある人が行くところでも、才能を伸ばすところでもなく、「音楽の基礎を勉強するところ」であって、ただのスタートラインに過ぎない。
例えば僕の通った大学では、作曲クラスは10人ほど。中には、小さい頃からピアノを始め、かつ、小学生の頃からすでに作曲を勉強して来ているクラスメイトが数人いた。
一方私は、ピアノは、兄弟がいた関係で、姉についていく形で近所のピアノ教室へは通っていたが、作曲を習ったことなど一度もなく、音大受験の浪人の時に、初めて作曲の勉強に触れた。実際、受験はギリギリ合格でしたし、入学当初は力の差を感じたことは事実だが、大学で勉強する4年間で、誰にとっても、何かを完璧に習得できるハズもなく、もっと大切なことは、在学中はもとより、卒業後も、絶え間なく努力を続けられるかどうかである。
こういった考え方は、実際に、その道へ進み、プロの作曲家として生きて来てみて、やっと初めて理解できることであって、プロの音楽家でも無い人に、そのリアルな現実など、当然分かるハズもない。
なので、これから、音楽のプロフェッショナルを目指す方々に私が言いたいことは、「才能」という見えないものよりも、「努力」という現実的なものに目を向け、それを人生を通してやり抜ける覚悟があるかどうかを自分自身に問うて欲しいということだ。
それが出来ると思えるなら、あとは、自分を信じて、勇気を持って選択するしかない。
また、、これはあくまで私個人の意見ですが、努力することが嫌いだったり、努力の必要のない楽チンな人生を歩みたいと思うなら、作曲家の道を目指すのには向いていないですし、当然、こちらのプロフェッショナルコースも向いていないので、お勧め出来ない。
世の中には、作曲家を目指すよりも、もっと楽チンにお金を得られる職業ややり方がたくさんあるので、そういった職業を目指すべきだと私は思う。音楽が大好きで、そのためなら、例え苦しい状況でも、例え周りの人にバカにされても、例えあまりお金が稼げないとしても、それでも、自分の人生に誇りが持てると思えるなら、それでも絶え間ない努力を継続できると思えるなら、きっと、その人は、苦しくても頑張れるし、周りの人に尊敬されるような人にもなるだろうし、意外と結果も出てくるし、意外とお金も稼げる、そんな音楽家になれると私は思う。
そして、絶え間ない「努力」によって自分の道を切り開き、成長しプロになったあなたを見て、周りの人間は、
「あの人には”才能"があったからプロの作曲家になれた」
と、考えるのでしょう。なぜなら、周りの人間には、あなたが見えないところで行なってきた膨大な努力など、何も見えてはいないのです。
あなたからすれば、作曲家になるために大切なことは「努力」となり、周りの人からしたら、作曲家になるために大切なことは「才能」となります。こうして、世の中の大多数(周りの人)の認識として、
作曲家になるために大切なこと = 才能
という方程式が出来上がる訳です。
●プロの作曲家を目指すという選択
と音楽の才能との関係
この「DTMプロフェッショナルコース」のサイトをご覧になっている方は、これから、自分の好きな音楽に対して、「音楽家」「作曲家」というものを、趣味で続けていくべきか? はたまた思い切って職業にするのか?という、人生の選択を、大なり小なり考えるのではないでしょうか?
そして更に、この分野において、常につきまとってくる「音楽の才能」という言葉。実際、私自身も、中学生や高校生の頃から、このことを意識し、悩み、考え、いよいよ高校卒業の時期に来た時に、本格的に選択を迫られました。
音楽大学への進学、一般的な大学への進学、専門学校、就職。出来るかどうかは別として、あらゆる選択肢がある中で、音楽家、出来れば、作曲家を職業にしたいという淡い希望を抱きつつ、この「才能」という言葉を、学校の先生や、友人に対して使いました。
担任の(一般教科の)先生に対しては、「音楽大学へ進学したいが、自分にそんな作曲の才能があるとは思えない」と弱音を吐いてみたり。
友人に対しては、「自分のような、音楽の才能も無いであろう一般人が、作曲家になれるなんて、そんな甘い世界じゃないと思っている」というような会話をしたことを記憶している。
私の両親は公務員で、「一般」を絵に描いたような家庭で育った私の周りに、音楽家を職業にしている人は、家族は勿論、親戚にもいませんでした。親族は皆、公務員か会社員という安定を絵に描いたような職業が多く、自営業者すらいなかった。家族からは、「音楽家なんて、お前が考えているほど、そんな甘い世界ではない」と、上から(ドヤ顔で笑)言われたこともありました。
結局のところ、一部の人には、ネガティブなことを言われ、一部の人は背中を押してくれました。おそらく、皆さんの場合も、結果は、似たようなものでしょう。考えが甘いという人もいれば、やりたいことならやってみるべきと言う人もいる。つまり、結局は自分で決めるしか無いという結論に収まる。でも冷静になってよく考えてみると、そもそも、才能があるか無いかなど、プロになるための勉強を始めてみてもいない時点で、音楽の神様以外、誰にも分からない。
更に言うならば、そもそも作曲家を職業にするのに、ずば抜けた音楽的才能が必ず必要かと考えると、そんなことはないと私は思う。
勿論、ずば抜けた才能があればそれは幸せで楽チンかもしれないが、あくまで仕事とすることがゴールならば、「人以上に努力する才能」さえあれば、十分可能だ。(流石に、生まれつきの才能もなく、かつ、努力することすら出来ない人には難しいかと思うが、それは、音楽以外の職業でも同様なのは言うまでもない。)
ちなみに、「音楽大学」と聞くと、皆さんは、もしかしたらそこには、音楽の才能が溢れている生徒がたくさん!と思うかもしれないが、それも大きな間違いである。
確かに、ほんのほんの一握り、周りに比べて、才能がずば抜けた人がいる場合もあるが、ほとんどの大多数は、まさにどんぐりの背比べだ。そもそも、音楽大学というのは、才能がある人が行くところでも、才能を伸ばすところでもなく、「音楽の基礎を勉強するところ」であって、ただのスタートラインに過ぎない。
例えば僕の通った大学では、作曲クラスは10人ほど。中には、小さい頃からピアノを始め、かつ、小学生の頃からすでに作曲を勉強して来ているクラスメイトが数人いた。
一方私は、ピアノは、兄弟がいた関係で、姉についていく形で近所のピアノ教室へは通っていたが、作曲を習ったことなど一度もなく、音大受験の浪人の時に、初めて作曲の勉強に触れた。実際、受験はギリギリ合格でしたし、入学当初は力の差を感じたことは事実だが、大学で勉強する4年間で、誰にとっても、何かを完璧に習得できるハズもなく、もっと大切なことは、在学中はもとより、卒業後も、絶え間なく努力を続けられるかどうかである。
こういった考え方は、実際に、その道へ進み、プロの作曲家として生きて来てみて、やっと初めて理解できることであって、プロの音楽家でも無い人に、そのリアルな現実など、当然分かるハズもない。
なので、これから、音楽のプロフェッショナルを目指す方々に私が言いたいことは、「才能」という見えないものよりも、「努力」という現実的なものに目を向け、それを人生を通してやり抜ける覚悟があるかどうかを自分自身に問うて欲しいということだ。
それが出来ると思えるなら、あとは、自分を信じて、勇気を持って選択するしかない。
また、、これはあくまで私個人の意見ですが、努力することが嫌いだったり、努力の必要のない楽チンな人生を歩みたいと思うなら、作曲家の道を目指すのには向いていないですし、当然、こちらのプロフェッショナルコースも向いていないので、お勧め出来ない。
世の中には、作曲家を目指すよりも、もっと楽チンにお金を得られる職業ややり方がたくさんあるので、そういった職業を目指すべきだと私は思う。
音楽が大好きで、そのためなら、例え苦しい状況でも、例え周りの人にバカにされても、例えあまりお金が稼げないとしても、それでも、自分の人生に誇りが持てると思えるなら、それでも絶え間ない努力を継続できると思えるなら、きっと、その人は、苦しくても頑張れるし、周りの人に尊敬されるような人にもなるだろうし、意外と結果も出てくるし、意外とお金も稼げる、そんな音楽家になれると私は思う。
そして、絶え間ない「努力」によって自分の道を切り開き、成長しプロになったあなたを見て、周りの人間は、
「あの人には”才能"があったからプロの作曲家になれた」
と、考えるのでしょう。
なぜなら、周りの人間には、あなたが見えないところで行なってきた膨大な努力など、何も見えてはいないのです。
あなたからすれば、作曲家になるために大切なことは「努力」となり、周りの人からしたら、作曲家になるために大切なことは「才能」となります。
こうして、世の中の大多数(周りの人)の認識として、
作曲家になるために大切なこと = 才能
という方程式が出来上がる訳です。
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Kiroro
Uru
大竹しのぶ
Uru
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JUJU
Flower
中島美嘉
中島愛
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